保健体育の座学は三年生の時だった。先生は東京大学教養学部の講師の方だった。
当時の我々に保健体育の講義を座学で聴けと言っても無理だ。40人強のクラスメートで先生の話を聴いている人間はたぶん一人もおらず、先生は誰も聴いていないと分かっていながら、学年の4つのクラスで約9か月も授業をされた。壁に向かって話し続けていたようなもので、講師料をもらっていらしたとしても腹に一物、抱えられたであろう事は想像に難くない。
3月に東京大学の入試の二次試験があって合格者は駒場キャンパスへ入学手続きにいった。その中の一つに身体検査があった。
身長を測る列は2本ありそれぞれに十数人が並んでいたのだが、右側の列の身長計の担当があの保健体育の先生だった。
私が部屋に入った時、右側の列の前の方に教駒の同級生がいた。彼が身長計に乗ると、くだんの講師は垂直方向にスライドするあの板を思いっきりガツンと頭のてっぺんに下した。その衝撃は彼の膝が崩れるほどの大きさだった。その同級生の次もまた教駒の人間で、彼もまた衝撃で膝が崩れた。
どう見ても顔を覚えていた教駒の生徒に、「一物」をぶつけていたようにしか見えない。
私はあわて左側の列へ移ったのだった。
レポートのテーマは「ホメオタシス」だった。しかし誰に聞いても「ホメオタシス」という言葉は初耳だった。先生が授業でこれを話したのかどうなのかも分からない。
私はまたいつもの渋谷の大型書店で参考となる本を探すつもりでいたら風邪をひいてしまった。家にあった大百科事典には「ホメオタシス」が何かの項目の付けたしとして3行だけ書かれていた。
レポートはレポート用紙に2枚か3枚と指定され、私は百科事典の「3行」をうんと膨らます事になった。「太罫」のレポート用紙に一行飛ばしで書いて、何とか2ページとした。
保健体育の時間の席取りは大変な競争だった。みな少しでも後ろの席を取ろうとしていたのだ。秋になると日ざしが暖かい席が人気になった。保健体育の教室は1階にあり、その一つ前の授業は3階での物理だった。物理の授業が終わると部屋を飛び出して階段を駆け下り、1階の教室のドアの前で部屋に入る順番争いをした。誰がドアノブを取るかが勝負だった。