東京ディズニーランドに入り浸っていた1990年代の半ば、たぶん「ウエスタンランド」内だったと思うが、ショップ群の中でも特に奥にあった店で「おみこし」を売っていた。いわゆる「子供みこし」のサイズで値段は100万円ちょうど、黄金色に輝いていた。
店の内装はディズニー風でちょっと見の違和感はないのだが、このおみこし以外の商品もすべてがディズニーからはほど遠く、どうみても「千葉物産館」だった。
東京ディズニーランド誕生までの歴史を多少、かじった者として、思わず苦笑してしまった。地元の方々の強い希望を受けた千葉県からの要請にオリエンタルランド側が示した精一杯の誠意なのだと思う。双方とも立派なことだ。
東京ディズニーランド誕生までの話はたいてい、さかのぼっても建築工事着工か、あるいは基盤整備工事着工までの話しか最近はされない。もっとさかのぼってみよう。
私が話をするとしたら「丹澤善利」という山梨県出身の実業家の話からになる。いわゆる甲州商人で大儲けしては大損するということを繰り返し、戦後は朝日土地興業という会社の「船橋ヘルスセンター」で大ブレイク、余勢をかつて浦安の埋め立てをてがけたところで挫折して実業家人生を終える。香港へ移住したと聞いたのが最後だ。
船橋の埋め立てで大儲けした彼がもっと巨大な大儲けしようとして手がけたのが浦安の埋め立てで、当時、3ブロックに分かれていた。A地区とB地区が住宅地になり、C地区が今の東京ディズニーリゾートとなった。
浦安での埋め立てについて、千葉県は「工場はもういいから、住宅とか遊園地なら許可を出す」とした。そこで丹澤氏は「埋め立て地の3分の1の60万坪で、『東洋最大の遊園地』を作る」と千葉県と約し、そのための事業会社の社名を『オリエンタルランド』と名付けた。これで東京ディズニーリゾートが建つための「地面」ができるめどが立ったわけだ。東京ディズニーランドがオープンするはるか前のことである。
私が丹沢善利氏について知るのは朝日土地興業時代以降の活動で、それ以前のことはよくわからない。先輩に聞かされたのは「戦時中、マンキンタン(万金丹)」という薬で大儲けしたという話だ。マンキンタンというのはたぶん今の仁丹とか正露丸と似たような粒状の錠剤、飲むと腹がこわれないという薬効のもので、中国や南方に派遣される主に陸軍の兵隊さんの間で、大変はやったらしい。
丹澤善利氏の息子さんから善利氏の自伝(一代記)をいただいた事があるのだが、分厚いので読まなかった。探せば家の中のどこかにあるかも知れない。大正期から昭和前期の企業経営者を研究している人には資料として参考になる可能性がある本だ。
朝日土地興業時代の丹澤氏の経営手法で注目すべき点は、彼が資金調達の主たる方法として新株の発行を盛んに用いていた事だ。彼の時代は日本の証券市場が未発達で、企業は資金面では銀行の言うなりになるしかない時代だった。金融当局としても銀行経由の方が意図する方向へ資金を流しやすかった。丹澤氏のスタイルは昔のアメリカの資本主義勃興期の経営者の気風に通じるところがあった。
マンキンタンと東京ディズニーランドを結ぶ線は、朝日土地興業がてがけた船橋市の埋め立てだ。武州鉄道という戦後の一大疑獄事件もこの線を太くする。
これらの全てを結ぶのは「利権」という言葉だ。
「マンキンタン」も「(埋め立てまでの)東京ディズニーランド」も「船橋ヘルスセンター」も「武州鉄道」も、多かれ少なかれ「利権」が非常に重要なワードなのだ。
ただし私は「利権」という言葉を、単純で軽々しい正義感を振りかざすために用いる人が用いる時は信用できない。こういう人たちが考えているよりも世の中ははるかに込み入っているのだ。
だからたぶん、東京ディズニーランドの中に「千葉物産館」があったのだと想像する。
なんで今ごろ、突然この話を思い出したのだろう。
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