私が高校に入学した1969年当時も、高校生は「文科系」と「理科系」にコース分けされた。
私は理科系で、従って文科系の科目、特に日本史、世界史、地理、倫理社会、政治経済の勉強はまったくしなかった。東大の理系の二次試験にはこれらの科目はなかったのだ。
筑波大付属駒場には「駒場の自由」という旗印がある。これは生徒にとっても重要だったが、先生にとっても重要だった。「自由」を錦の御旗に、何を教えても良かったのだ。
だから日本史は「魏志倭人伝」と「明治の条約改正史」、地理は「地図の各種の技法」と「マルサスの人口論」、世界史は詳しくやりすぎて「ギリシャ・ローマ時代」と「唐の時代」までで一年が終わった。「倫理社会」は何を教わったのか全く覚えていない。「政治経済」も似たようなものだが、テストでマネーの回転速度の問題が出た(もちろん答えられたわけがない)ことだけ覚えている。なぜ覚えているかと言うと、これが数式だったからだ。
まあとにかく、当時の私にとってはどうでもいい話ばかりだったわけだ。
したがって頼ったのが「期末対策委員会」。
期末テストが近くなると、有志が集まって手分けし、みんながまじめに聞いていないであろう科目について、試験予想をかねた「レジメ」を作ってくれた。
期末対策委員会が初めてできたのは高校一年生の終わりごろだったと思う。
当初は学年横断的な委員会だったのに、学年が進むとクラス別に期末対策委員会ができるようになり、他のクラスの委員会のレジメをいかにして手に入れるかが課題になった。
そこで「農学」の話だ。
初期の期末対策委員会で最も需要が高かったのが「農学」の授業のレジメだった。
当初は一人の献身的な委員が犠牲になり授業を聴き、ガリバン刷りにして配っていた。
ところが期末試験の日時がだんだん近づいてきてこれでは追いつかなくなり、彼はガリバンと鉄ペンを持って、最前列の席で授業内容をノートではなくガリバンに書いていた。
先生はこれを見咎め、「そこまで他人の面倒を見てやる事はない」と言ったのだった。