「吉田拓郎」や「南沙織」は「三橋美智也」になってしまった

 私の保有CD枚数、推定400枚。  私としてはこの「思い出の在庫」を何とかしないと、気が済まない。

 

 という訳で、サラリーマンを引退した昨年6月から、昔のCDを聴き浸っている。 今、聴いているのは「吉田拓郎」シリーズだ。彼のCDの保有枚数は9枚。

 

 以前、「南沙織」を聴いた時にも(なぜ彼女だったのかは分からない)思った事がある。

 

 さすがに二人とも、古くさいんだよね。  いまでも、良い事は良いんだけれど。

 

 例えば「吉田拓郎」には「元気です」なんて、素晴らしいアルバムがある。

 1972年7月のリリース。 当ジャパン・トランスナショナルが最も多感だったころだ。

 

 「春だったね」「夏休み」「たどり着いたらいつも雨降り」「旅の宿」「祭りのあと」・・・  どの曲もほんとうに素晴らしい曲だ。テープが擦り切れるほど聴いたものだ。

 

 でも今、聴くと、さすがに古くさいのです。  いちばん古くささを感じさせるのは「編曲」だと思う。

 

 しかしなぜ「南沙織」に突然、古くささを感じたのかはよく分からない。

 

 この頃のアイドル達、例えば「天地真理」も、「山口百恵」も「編曲」という点では似たようなものだったと思うのだが。

 

 結局、今の自分が彼や彼女たちに感じるのは、自分が若いころに「三橋美智也」や「東海林太郎」「美空ひばり」ほかから感じた「古くささ」と同じ種類の物なのだ。

 

 きっと。